#24
#24

義に生きた戦国武将、
小谷城城主「浅井長政」

第24回
戦国時代篇「浅井長政」


近江を制する者は天下を制す。
山城で、河原で、激戦が繰り広げられました。
義に生きて、華と散りました。
長政には、美しいお市という妻と三人の娘がいました。

悠久の時が流れる姉川

伊吹山と琵琶湖
伊吹山と琵琶湖

 伊吹山地の新穂山付近に源を発し、米原市の北部をほぼ直線に南下した後、西に方向を転じて草野川と高時川を合わせ、とうとうと琵琶湖の北東岸に注ぐ清流が姉川です。全長約39キロメートル、滋賀県最大の流域面積を誇り、ピクニックやキャンプ、渓流釣り、紅葉狩り、スキーなど、一年を通じて楽しめる自然豊かな行楽地でもあります。しかし、今からちょうど450年前の夏、この清らかなせせらぎを朱に染める出来事が起こりました。

絡み合う運命の糸

長政とお市
長政とお市

 近江国浅井郡にあった小谷城の城主、浅井長政。長政は天文14(1545)年、南近江の観音寺城下(現在の近江八幡市安土町)に生まれました。父は久政といい、当時の浅井家は、南近江の守護である六角氏に敗れて付き従っている状態でした。元服した長政に六角氏は、六角義賢から一字を取った「賢政」を名乗らせ、家臣の娘と強引に結婚させました。しかし、永禄3(1560)年に起こった野良田の戦いで長政が六角氏に勝利すると、状況は一変します。六角氏への臣従に不満を募らせていた浅井家の重臣たちが久政を隠居させ、代わって長政が家督を継ぎました。六角氏の家臣の娘とも離縁した長政は徐々に勢力を拡大していきます。

 一方、尾張から天下統一を狙っていた織田信長。美濃の斎藤氏を攻略するため、長政に同盟の話を持ち掛けます。これは長政にとっても悪い話ではなかったものの、問題が一つありました。信長と敵対している越前の朝倉義景が古くから浅井家と親しく、恩義ある存在だったのです。そのため、長政は同盟を結ぶ条件に「朝倉への不戦の誓い」を提示し、信長はこれを承諾。さらに信長は、絶世の美女と称された妹の市を長政に嫁がせました。いわゆる政略結婚ですが、長政とお市は仲むつまじく、二男三女の子宝にも恵まれます。

 諸説さまざまな解釈はありますが、おおむねこのような経緯です。そして、長政とお市の間に生まれた三姉妹は、後に数奇な運命をたどることとなります。

長政と信長が激突した姉川の戦い

姉川
姉川

 世は戦国。平和な日々など長くは続きません。同盟締結の数年後、織田信長は浅井長政との約束を破ります。

 朝倉義景は、室町幕府最後の将軍となる足利義昭が京都へ上る際の援護要請に応じず、義昭が将軍となってからも上洛命令を無視し続けました。義昭を擁立し支持していた信長は怒り、義景を攻撃したのです。これを知った長政は板挟みとなって悩んだ末、朝倉家の長年の恩義を重んじ、同盟を結んでいた義兄に反旗を翻しました。

 元亀元(1570)年6月28日、姉川を挟んで二つの大軍が対峙し、合戦の火ぶたが切って落とされます。浅井・朝倉連合軍が約1万8千人、織田・徳川連合軍が約2万8千人。浅井方が数的不利にもかかわらず、織田方13段構えの陣の11段まで突破するほどでしたが、しかし徐々に攻め込まれ、織田方の総攻撃に崩れて小谷城へ敗走したのでした̶̶。軍勢などについても諸説あるものの、川の水を真っ赤に染めるほどの激戦だったと伝わる姉川の戦い。血原(ちはら)や血川橋(ちかわばし)といった地名が往時の惨劇を物語っています。

小谷城の決戦

小谷城跡
小谷城跡

 合戦の後、難攻不落といわれた小谷城に籠城して3年。信長からの再三の降伏要請にも応じなかった長政ですが、ついに城を包囲され、最期のときを迎えます。まだ若い妻と幼い娘たちの命を保証するよう約束を取り付けて信長に引き渡し、城の小丸で自害しました。享年29歳。

浅井三姉妹のその後

浅井三姉妹
浅井三姉妹

 浅井家の滅亡後、母お市とともに織田信長の元へ送られた三人の娘たちは、戦国から江戸へと続く動乱の時代の中で数奇な運命に翻弄されながらも、それぞれの名を大きく歴史に刻むこととなります。

長女 茶々

 後に淀殿と呼ばれる女性です。信長の死後、柴田勝家と再婚した母お市とともに越前へ移り住みましたが、豊臣秀吉に攻められて勝家とお市は自害し、三姉妹は秀吉の庇護下に置かれます。そして、茶々は秀吉の寵愛を受けて側室となり、秀頼を生みました。時の天下人の子、豊臣家の跡継ぎを生んだことで絶大な権力を手にした茶々は、秀吉が亡くなると、徐々に徳川家との争いに巻き込まれていきます。秀吉の死後は大坂城に移っていましたが、 大坂の陣で豊臣家は敗北し、息子の秀頼とともに命を絶ちました。元和元(1615)年、47歳でした。

次女 初

 秀吉に引き取られた後、近江の名家である京極家の、いとこに当たる京極高次に嫁ぎました。高次が没すると、剃髪して常高院と号しました。この頃から、甥である豊臣秀頼と徳川家康との間に対立が起り、常高院は豊臣方の使者として仲介に奔走します。大坂の陣では、姉である淀殿(豊臣方)と妹の江 (徳川方)との間に入って和睦を模索したといわれています。晩年は江戸で過ごし、寛永10(1633)年に64歳でこの世を去りました。

三女 江

 二人の姉と同じく秀吉に引き取られた後、尾張の大野城主である佐治一成に嫁ぎましたが、秀吉の命で離縁し、羽柴秀勝と再婚しました。秀勝と死別すると、後に二代将軍となる徳川秀忠と再々婚し、二男五女をもうけます。このうち、長男の家光は三代将軍となり、五女の和子は後水尾天皇に嫁いで後の天皇となる子を生みます。こうして江は将軍家と天皇家に浅井家の血筋を残し、寛永3(1626)年、江戸城で54年の生涯を閉じました。諡号は崇源院です。
※生い立ちや年齢等については諸説があります。

浅井長政ゆかりの地

小谷城跡図
小谷城跡図

小谷城跡

 小谷城は、長浜市湖北町に位置する標高約495メートルの小谷山に築かれていた巨大な山城であり、浅井家が三代にわたって居城としていました。築城は大永5年(1525年)頃と推定されています。現在、城はありませんが、石垣など地形を巧みに利用した遺構が残っており、戦国時代の面影がしのばれます。眼下には、琵琶湖まで見渡すことのできる大パノラマが広がっています。

◎湖北八景 ◎日本五大山城 ◎日本百名城 ◎国指定史跡