#19
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春を知らせる ふるさとの味、
滋賀県大津市上田上「菜の花漬」

第19回
「上田上の菜の花漬」


滋賀県大津市田上・上田上地域に伝わる漬物「菜の花漬」。2種類あるうちのひとつ「黄金漬」は、昔ながらの独特の風味が特徴です。その作り方を継承する田上地域の「農工房ひらの」の活動とその想い。

地元で愛され続ける“畑の鮒鮨”

畑の鮒鮨
黄金漬(菜の花漬)

湖南アルプスと称される田上山の麓に位置する滋賀県大津市の田上(たなかみ)地域。大戸川(だいどがわ)が流れる盆地に、のどかな田園風景が広がります。

 例年3月下旬、その一角を鮮やかな黄色が染め上げます。春の訪れを告げる菜の花です。地域の名物「菜の花漬」は、この菜の花で作るもの。菜の花漬といえば、漬物として比較的ポピュラーですが、ここには5日間ほどで仕上げる鮮やかな黄色を残した浅漬けの「新漬」と、ほぼ半年間漬け込み、深い黄金色に仕上げた「黄金(おうごん)漬」の2種類があります。

とくに「黄金漬」は、昔ながらの作り方を受け継ぐここならではのもの。独特の酸味と香りが特徴で、“畑の鮒(ふな)鮨”とも呼ばれ、愛されてきました。この伝統の菜の花漬作りを継承しているのが「農工房ひらの」。現在は、全員70代というメンバー5名で、種まきから畑への定植、収穫、漬け込みまですべてを担っています。リーダーの寺元孝子さんは、子どもの頃の思い出をこう語ります。

「遠足のお弁当は菜の花のお漬物とおにぎりでした。それを青空のもと、畦(あぜ)に座って食べるのが本当に楽しみで。学校の窓から見える、黄色いじゅうたんを敷き詰めたような菜の花畑が今も目に浮かびます。私は、ここが大好きなんですよ」

丁寧な作業で生み出す菜の花の美しさ

丁寧な手作業から生まれる

 滋賀県は、近江米でも知られる米どころ。田上地域もまた、水と豊かな土壌に恵まれ、古くから米づくりが盛んでした。菜の花は初秋、米を収穫した後に種まきができるため、古くは江戸時代から水田の裏作として栽培されてきたそうです。

 当時の菜の花は、食用ではなく、主に灯明に使う菜種油(なたねあぶら)を採るための作物でした。育てる途中、菜の花の株を成長させるために欠かせなかった作業が、花を間引くこと。菜の花漬は、この間引いた花を塩漬けにしたのが始まりだとか。いつしか田上の食卓に欠かせないご飯の供になりました。

 そもそも菜の花とは、特定の植物の名ではなく、アブラナ科の植物の花芽を意味し、「なばな」や「花菜」とも呼ばれるもの。ここでは現在、食用菜の花の「寒咲菜種」という品種が漬物を作るためだけに栽培されているそうです。収穫のピークは3月から4月の半ばまで。つぼみから満開になるまでが勝負で、ほんの数週間の間にメンバー総出で集中して作業を行います。

 「昔は、かさ増しをするため葉も混ぜましたが、今は花だけ摘み取っています。人さし指と中指でつぼみだけ挟んで摘むと、花を傷めずにすむんですよ」丁寧な手作業を見せてくれたのは、農工房ひらのの西浦房子さん。結婚を機に田上に移り住み、苦手だった菜の花漬作りも、今ではおいしいと評判を呼ぶほどに。「茎が入るときれいな色に漬からないから、気をつけないと」と、慎重につぼみに手を伸ばします。こうした細やかな手作業により、美しい菜の花漬は生まれていきます。

半年も手間暇かけて懐かしい味に

半年も手間暇かけて

 新漬と黄金漬の作り方は、さまざまな点で異なります。新漬は、軽快な歯ごたえを残すため、だいたい七分咲きの花を使い、塩だけを加えて漬け込みます。途中で漬物樽の中を混ぜる「天地返し」をして約1週間。花の黄色と萼(がく)の緑色とのコントラストが美しく、春の訪れを目と舌で楽しめる菜の花漬のできあがりです。

 黄金漬は、八分咲きから満開の花を使い、塩と味のアクセントになる鷹の爪を加えて約半年間漬けます。独特の味わいを生み出すのは、灰汁(あく)を出しきってからの初夏に行う作業。米ぬかと塩、鷹の爪で作る「ぬか座布団」で菜の花漬を覆い、乳酸発酵を促します。重しの漬物石は、色よく仕上げるため、一般的なものより重い石を使います。

 その後の夏場は、温度や湿度の管理が欠かせません。発酵の進みすぎや腐敗を防ぐため、長年培ってきた経験をもとに絶えず注意して、ようやく実りの秋、輝く稲穂のような黄金漬が仕上がります。この地を離れた人にとっては、懐かしい我が家の味です。

 「嫁いだ娘が帰ってくるとお土産に持たせてやるんです。家族の好物になっているそうですよ」とは、西浦さん。
その楽しみ方はバリエーション豊かで、新漬は、サラダ感覚で味わったり、白和えの具やちらし寿司の飾りにしたり、和洋問わず使えます。

 黄金漬は、もちろん炊きたてのご飯との相性がよく、細かく刻んでおにぎりに使っても。粋なのは、お茶の中に入れるという楽しみ方で、押しつぶされていた花がふわっと開いて浮かび、何とも幸せな気分を誘います。

次の世代につなげるふるさとの味

次の世代につなげる菜の花畑
菜の花畑

 「土と水に恵まれているから、色と味のよい菜の花が育ち、美しくおいしいお漬物ができます。ほかの土地で作っても、同じようにはいかないんです。田上の自然があってこそ生まれる色と味です」
そう寺元さんが語るように、菜の花漬はかけがえのない地元の味です。ところが近年、手作りする家庭が減りつつあります。こうした中、農工房ひらのが作る菜の花漬は、地域の特産品として、地元はもとより全国的にも大人気。黄金漬は、例年10月末から11月にかけて地元のJAなどに出荷されて出回りますが、それを毎年心待ちにしているファンも多いとか。珍しいと贈答品に使われることも少なくないそうです。

 とはいえ、菜の花漬作りには紹介した通り、大変な労力を要します。漬ける量によっては、重い漬物石を何段か積むことも。腰に負担がかかる重労働ですが、半面、得られる喜びも大きいと西浦さん。
「JAの直売所で開催されるイベントでは、買っていただいた方からよく『おいしい』と声をかけてもらいます。それが、私たちの大きなエネルギーです。菜の花漬は、この地域に代々伝わる大切なおふくろの味、おばあちゃんの味。これからも守っていきたいですね」
寺元さんは、続けていくことの大切さについて語ります。
「菜の花漬は、昔の人の知恵の結晶です。乳酸発酵させているから保存がきいて、長く楽しめます。この伝統の灯を絶やさないよう、量は少なくても毎年続けていけるよう、後継者を育てたいですね」

 ひとくち頬張ればよみがえる、子どものころの記憶。そんな幸せと伝統を次世代へ。菜の花漬は、ずっと残していきたいふるさとの味です。