#27
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早世の天才武将、
「蒲生氏郷」。

第27回
「蒲生氏郷」


限りあれば 吹かねど花は
散るものを 心みじかき 春の山風
「いずれ花は散るのに、どうしてせわしなく春の風は吹くのだろう」。この辞世の句を詠んだのは、名将とうたわれた武将、蒲生氏郷(がもううじさと)。40年の短い人生で、日本に大きな足跡を残しました。

信長の目にとまった優れた器量

蒲生郡日野町

 滋賀県ゆかりの戦国武将のひとり、蒲生氏郷。織田信長や明智光秀にくらべると、知名度はいまひとつかもしれませんが、戦場での勇猛ぶりや領国の経営手腕、和歌や茶の湯にも秀でた高い教養で知られる、文武に優れた名将です。同時に、心ならずもふるさとを遠く離れ、やがて40歳という若さで早世した悲運の武将でもあります。

 蒲生家は、鈴鹿山系の西麓に位置する近江国日野、現在の滋賀県蒲生郡日野町の豪族です。室町時代末期から日野を本拠とし、鎌倉時代には地名から地元で中野城とも呼ばれる日野城を築城。城下町を整えて繁栄をもたらしました。

 その19代当主である氏郷は、幼少期に人質として織田信長に預けられ、戦国を生きる武将のいろはを学びます。これが氏郷の人生の起点となりました。信長は勉強熱心で利発な氏郷にことのほか目をかけたとか。娘・冬姫をめとらせ、婿養子にして、氏郷元服の際は自ら烏帽子親を務めたほどです。義父・信長に見守られ、氏郷はひとかどの武人へと成長を遂げていきます。

弔い合戦に挑む気概を見せた氏郷

鯰尾の兜

 蒲生氏郷の優れた武勇を物語る有名なエピソードが残っています。氏郷は、家臣を召し抱えると必ず「我が軍には、銀の鯰(なまず)尾の兜をかぶり、先頭に立つ者がいる。その男に後れをとらぬように励めよ」と鼓舞したとか。その鯰尾の兜の武者とは、氏郷自身のことでした。

 そんな猛将・氏郷の名声を一躍高めたのは、皮肉にも義父・織田信長が明智光秀に討たれたあの本能寺の変でした。天正10(1582)年、氏郷26歳のときです。父・賢秀(かたひで)とともに安土城にいた信長の家族をいち早く居城の日野城にかくまい、光秀への対決姿勢を鮮明にして、その名を天下に知らしめました。

 ところが、山崎の決戦で光秀が豊臣秀吉にあっけなく敗れ、「いざ、信長の敵を!」という氏郷の出鼻はくじかれます。この後氏郷は、織田家中の実権を握った秀吉に従うことに。経緯は定かではありませんが、秀吉ほどの人物が世の称賛を集めた氏郷を味方につけたことは、当然といえるでしょう。

商都松阪の礎を近江日野商人と築く

日野城跡

 蒲生氏郷の能力は、領国の基盤づくりにも発揮されました。“豪商のまち”三重県松阪市の基礎も氏郷が築いたものです。

 数々の合戦で武功を立てた氏郷は、天正12(1584)年、伊勢松ヶ島12万石の領主になります。着手したのが、新たな城造りと城下町の整備。町の名は、大坂から一字をとり「松坂」と改め、民が暮らしやすいよう下水路などを設け、さらに織田信長を見習い楽市楽座を推し進めて、地元日野からも商人を呼び集めました。近江日野商人が松坂へ移ったのは、氏郷を慕っていたからとの説も。いずれにしろその功績は大きく、いまなお“松阪開府の祖”とこの地で敬愛されています。

 一方、氏郷が去った日野はといえば、日野城は使われることなく江戸時代に廃城となり、現在は「中野城(日野城)跡」として本丸石垣や堀の一部がかつての面影を残しています。

 父・賢秀は、日野城から近い鎌掛(かいがけ)城の麓の山屋敷を隠居所として過ごし、氏郷伊勢転封の年に世を去りました。いまは土塁や空堀といった遺構が往時を偲ばせるのみですが、近くには古生代の巨岩という国指定天然記念物「鎌掛の屏風岩」のほか、藤の寺として名高い「正法寺」も。例年5月上旬から中旬、みごとに咲き誇る花房が参拝者の目を楽しませています。

会津若松でも活かした日野の力

鶴ヶ城

 蒲生氏郷ゆかりの地として知られるもうひとつが福島県会津若松市です。天正18(1590)年、氏郷は会津黒川42万石に国替えとなります。

 これは、豊臣秀吉が天下統一の総仕上げに東北の統治を見直した、いわゆる「奥州仕置(おうしゅうしおき)」にともなう人事でした。一説には、氏郷を脅威に感じた秀吉が遠方に飛ばしたとも伝わります。

 当初、京・大坂から遠く離れることに悲嘆にくれたという氏郷ですが、移った翌年には九戸政実(くのへまさざね)の乱で東北平定に大きな役割を果たし、その功績により92万石という国内3番目の大大名に上りつめます。

 氏郷は、町づくりにも尽力します。黒川という地名は、ふるさと日野の馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)参道に広がっていた松林「若松の森」にちなんで「若松」と改名。城下町を整備し、ここにも旧領の日野や松坂から商人を呼び寄せます。会津塗や酒造りといった産業も、日野から職人を招いて興したとか。

 こんにち会津若松城の名でも知られる「鶴ヶ城」は、氏郷が黒川城を大改修して命名したものです。「鶴」は氏郷の幼名や蒲生家の家紋に由来するといい、会津の至るところに祖先が築いたふるさとを懐かしむ氏郷の想いがうかがえます。

 行く先々で活気あふれる平和な世の中のために生きた氏郷。目ざした社会のあり方は、現代にも連綿と受け継がれている理想であり、ときに忘れがちな私たちにその大切さを思い起こさせてくれます。

望郷の念を抱きながらの旅立ち

遺髪塔

 蒲生氏郷は、多様な顔をもつ名将です。文化人としては、茶人・千利休の7人の高弟を称した「利休七哲」のひとりであり、利休から「文武二道の御大将にて、日本において一人、二人の御大名」と絶賛されています。同じく利休七哲に数えられたキリシタン大名の高山右近と親しく、その勧めで洗礼を受け、「レオン」という洗礼名でも知られています。氏郷が死の床についた際、付き添ったのは右近だといいます。
 
 文禄元(1592)年、氏郷は、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して出陣した肥前名護屋、現在の佐賀県唐津市で病に倒れました。名護屋陣への途上、中山道にある武佐(むさ)の宿から、ふるさと日野の綿向山(わたむきやま)を望み、こんな歌を残しています。

思いきや 人のゆくへぞ 定めなき
 わがふるさとを よそにみんとは

 いま日野町ひばり野に建つ「蒲生氏郷公像」は、この歌を詠む氏郷の姿を表現しています。

 文禄4(1595)年、氏郷は京の蒲生屋敷で無念の死を遂げます。わずか、40年の生涯でした。短い人生で信長・秀吉の天下統一事業に貢献し、各地に大きな足跡を残した氏郷。日野町村井にある蒲生家の菩提寺・信楽院に佇むその遺髪塔には、いまも多くの花が手向けられています。