#28
#28

天下布武で国をひとつに、
「織田信長」。

第28回
「織田信長」


琵琶湖のほとり安土城にて天下統一の志。
かくも夢幻のごとくなり。

湖畔にそびえ立つ幻の巨城

安土城天守台からの眺望

 打倒信長をもくろむ戦国武将たちも度肝を抜かれたことでしょう。天正7(1579)年、空前絶後の巨城が琵琶湖畔にそびえ立ちました。全国制覇を目前にした織田信長が「天下布武」の拠点として築いた安土城です。当時の日本最高であろう技術と芸術の粋を結集し、3年の歳月を費やして完成した大城郭はしかし、天正10(1582)年6月2日、「本能寺の変」で信長が討たれて明智光秀に接収され、その後の戦乱によって焼失しました。築城からわずか6年で消えた幻の城です。

天下無双の安土城

安土城

 短命だったにもかかわらず、安土城がその名を城郭史に大きく刻んでいる理由の一つに、豪壮華麗な天主が挙げられます。
 
 安土城の天主は五層七重(地上6階・地下1階)という造りで、石垣も含めると50メートルに迫る高さだったと考えられています。このように、積み上げた石垣の上に天主を建てるという構造は日本初とされ、近世式の天主(天守)は安土城によって完成したといわれます。
 
 外観は、漆塗りの窓を設えた白壁を基調として高層部は赤や青といった大胆な彩り、最上部の望楼は金色に輝いていました。天主の内部にも金箔が張られ、座敷、書院、台所、納戸などが備わり、障壁には狩野永徳の絵が描かれていたそうです。こうした城の詳細は、家臣が著した『信長公記』や、安土城を訪れた宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』などが基となって現代に伝わっています。
 
 また、特異な構造としては、地階から地上3階までが巨大な吹き抜けになっていて、その中央には宝塔が据えられていたと推測されている一方、中央には心柱があったとする説や懸け造りで二の丸とつながっていたという説、さらには派手好みの信長らしく2階には舞台が設けられていたという説など、その後の研究によるさまざまな説があります。ともあれ、豪華絢爛たる城が400年以上前、近江の国に確かに存在していました。

天下布武への道程

延暦寺

 「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり」̶̶信長が桶狭間の戦いに出陣する際、厳かに謡い舞ったと伝わる「幸若舞」の演目『敦盛』の一節です。人の世の時間は天界と比べれば夢幻のようにはかない̶̶といったふうに解釈されています。
 
 桶狭間の戦いは永禄3(1560)年、尾張桶狭間(愛知県豊明市栄町)に進軍してきた今川義元を信長が奇襲し打ち破った戦いです。今川軍2万5千人に対して織田軍は3千人程度だったといわれており、これに勝利した信長は武名を上げ、天下統一への足がかりとなりました。その後、三河の松平元康(徳川家康)と盟約を結び、永禄10(1567) 年には美濃の斎藤氏を滅ぼして稲葉山城を岐阜と改め拠点とします。「天下布武」という文言を印章に使い始めたのは、この頃からです。その翌年、足利義昭を奉じて京都に入り、義昭は将軍となりますが後に対立。元亀2(1571)年、義昭に内通していた比叡山延暦寺を焼き打ちし、天正元(1573)年に義昭を追放して室町幕府を滅亡させます。その一方、元亀元(1570)年に、義弟である浅井長政と朝倉義景の連合軍を織田・徳川連合軍で倒します。そして、天正3(1575)年、長篠の戦いで
武田勝頼を破り、翌年、近江国の安土山に築城を開始しました。

戦うための城から、見せるための城へ

安土城跡

 深い堀を幾重にも巡らし、土を積み上げて塀を造り、迷路のような道を敷き、そして鉄砲や弓矢で迎え撃つ。あらゆる策を講じて敵襲に備え、あるいは敵方へ侵攻するべく戦備を整える一国の軍事拠点。それが城の持つ役割です。
 ところが、安土城は違いました。
 
 道幅が広く、大手道と呼ばれる長い直線の道などもあり、石垣といい高層といい絢爛豪華な外観・内観といい、安土城は、これまでの常識を覆す新しい時代の城郭でした。また、侵入者を拒む城にあって、信長は自ら見物料を徴収し、庶民に一般公開していたというから驚きです。そして極めつきが、どこの城にもない五層七重の天主だったのです。
 
 ちなみに、本丸の中核を成す櫓を現在は「天守」と書きますが、信長はこれを「天主」と命名し、自身の居宅としました。このことから信長は、日本で初めて高層建築物に住んだ人物ともいわれています。

 “近江を制するものは天下を制す”と、地の利を生かし、琵琶湖の東岸に突出した山一帯に築かれた安土城ですが、それは戦うための城ではなく、信長が築き上げた富と権力を天下に知らしめるための、国のシンボルとしての見せる城だったといわれています。

夢幻と消えた信長の“野望”

信長

 領主は、領民に慕われずして名君と呼ばれることはありません。安土といえば城ばかりに目がいきがちですが、城下には町があり、そこには民が暮らしていました。そして、天下統一を目指す織田信長は、強い武将であると同時に優れた政治家でもあったのです。その革新的な政策に「楽市楽座」と「兵農分
離」があります。
 
 楽市楽座とは、商工業において座と呼ばれる同業者組合の特権や独占販売、市場税などを廃止して、誰もが自由に商売ができるようにした制度であり、それまでにも六角氏や今川氏などが行っていましたが、信長はこれを大々的に押し進め、商工業ひいては城下町の発展を図りました。また、時代に先駆けて「兵農分離」の制度を推進し、武士は戦、農民は農作と、専門性を確立して双方の強化を図ったのも信長でした。
 
 戦乱の世において、商人や農民たちの願いはただ一つ、安心して働き、安心して暮らせる毎日が続くことでしょう。その環境を与えてくれる領主こそが良い領主なのです。それは、現代にも通じることなのかもしれません。
 
 天下布武。信長が掲げたこの目標は、“天下を武力で統一する”という、野望に満ちた意味に解釈されがちです。しかし本当は、私利私欲のためではなく人びとのため、圧倒的な力をもって戦乱を治め、世の中を平定する。天下泰平の世をつくるのだという、信長の夢と願いが込められているといわれています。
 
 志なかば、本能寺で無念の最期を遂げた織田信長。享年49歳。