#26
#26

今も長浜の町を守る、
「豊臣秀吉」。

第26回
「豊臣秀吉」


長浜に伝わり世界に誇る、長浜曳山まつり。ユネスコ無形文化遺産にも登録されているこの伝統行事は、江戸時代から町の発展をともに祝ってきた人々の手によって引き継がれています。まつりの由来からひもとかれるのは、豊臣秀吉が地域にもたらした功績でした。
今も残る人々の敬愛とともにその姿がうかがい知れるようです。
長浜曳山まつり

長浜の町と秀吉

長浜城

 天正2年(1574)年頃の長浜城築城とともに、当時の地名であった「今浜」を「長浜」に改名したのは、のちの豊臣秀吉こと木下藤吉郎。主君であった織田信長の「長」を取ったともいわれます。

 長浜八幡宮ほか市街地一帯で今も行われる「長浜曳山まつり」は、みずからの男子出生を祝ったもので、町民に砂金をふるまい、曳山を曳きまわしたのが始まりと言われ、日本三大山車まつりの一つとして、京都の祇園まつり、岐阜県飛騨の高山まつりとともに親しまれています。絢爛豪華な曳山は地元名工の飾り金具や彫刻などによって装飾され、“動く美術館”とも呼ばれるほどの華やかさです。江戸時代には織物産業などによって発展を遂げるとともに、曳山まつりはにぎわいを増し、地元の子どもたちによって披露される歌舞伎は、今でもこの祭りのメインイベントのひとつです。1979年には重要無形民俗文化財の指定を受け、また1985年には、13基の曳山と収蔵する山蔵が滋賀県の有形民俗文化財に指定されています。400年続くまつりに表されるのは、のちに大坂城を築き天下統一を果たした豊臣秀吉による町の繁栄でした。

秀吉が行った最初の町活性化

長浜城と町並み

 秀吉が18歳で信長に仕え、最初の活躍を見せたのは、34歳の時の金ヶ崎の戦いでした。浅井長政の裏切りに撤退を決めた信長軍でしたが、その時、迫りくる敵を引きつけることで軍勢の逃げる時間をかせぐ、しんがりの役目を買って出たのが秀吉でした。命がけの功績が認められ、浅井家を滅ぼした姉川の戦いののちに、信長から領地を与えられました。そこではじめて一国一城の主となって築いたのが長浜城でした。37歳の時、生涯の右腕とされる石田三成と出逢ったのもこの頃と言われています。

 秀吉は長浜の城下町の繁栄に取り組みました。楽市楽座が行われ、特定の組織に許されていた経済活動の制約を撤廃することによって自由取引市場とし、町人による商業への参入が容易になりました。諸役御免を決め、年貢300石の朱印地(免税地)として定めるなど積極的な規制緩和策により、町は一気に賑わいであふれ、自由な経済活動は富をもたらし活性化します。のちに彦根藩下に置かれたあとも朱印地は継続され、町人は商人として腕を磨き、町は発展を続けました。江戸期に織物工業によって栄えた長浜は、明治維新の波に乗り、急速な産業化の一躍をも担いました。

人々に讃えられ続ける秀吉の功績

豊国神社

 やがて全国を統一することになった豊臣秀吉。長浜での城下町発展の礎が、国の発展を導いたとも言えるのではないでしょうか。

 秀吉の死後、町の人々は深い敬意の念をもって秀吉を豊国神社へと祀りました。時は江戸へ、徳川の時代に移ると秀吉への信仰ははばかられるようになります。それでも人々は思案をめぐらせ、長浜八幡宮にあった商売繁盛の蛭子神を遷すことで、表向きを蛭子社としながらも、ひそかに隠した秀吉を弔い続けたのです。これは、関西に伝わる商売繁盛を祈願する祭礼行事「十日戎」の由来であるともいわれています。

 秀吉ら戦国武将の築いた世の中は、今、私たちの社会にも大きな影響を与えているともいえるでしょう。私たちは、人々が互いに喜びを見出せる社会を創造できているでしょうか。400年の時を経て敬われ継がれてきた戦国武将の足跡をたどると、乱世の中で人々を思い、豊かな国の統治を目指すリーダーたちの熱い使命がうかがえるようです。