#25
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万民のための国づくり「石田三成」。

第25回
「石田三成」


「大一、大万、大吉(だいいち、だいまん、だいきち)」。
ひとりは万民のため、万民はひとりのためにつくせば、天下は幸せになる。
この旗印に生きた戦国の知将が石田三成です。いま、その信念や功績の再評価が進み、三成を慕う人々がゆかりの地を賑わせています。

見直される忠臣の姿

秀吉、三成出逢いの像

 JR長浜駅の東口に建つ「秀吉・三成出逢いの像」。“戦国の聖地”と称される北近江にあってここ長浜市は、豊臣秀吉が城を築き、城下町を開いたことで知られますが、その忠臣石田三成の生涯を語るうえでも欠かせない地です。

 三成の故郷は、近江国坂田郡石田村。JR長浜駅から東へ6kmほど、現在の長浜市石田町です。三成が生まれた屋敷跡には関連資料を展示する「石田会館」が建ち、周辺には石田三成像や「石田治部少輔出生地」と刻まれた石碑、「三成産湯の井戸」といった史跡が点在しています。

 近年、ここを賑わせているのが“ミツナリスト”と呼ばれる三成ファン。かつては、“嫌われ者”“悪人”という負の印象が一般的だった三成ですが、その旗印に込めた「ひとりは万民のため、万民はひとりのためにつくせば、天下は幸せになる」という志や功績、人柄が見直され、近ごろではブームともいえる人気に。地元の後押しも強力で、滋賀県の特設サイト「石田三成×滋賀県」では多様な角度から三成の魅力を紹介しており、とりわけ動画『石田三成CM』は突き抜けたユニークさで話題をさらっています。

 いま、これまでとは異なる三成像が定着しつつあります。

秀吉の心を打った「三献の茶」

三献の茶

 石田三成の人生の起点といえるのが、主君豊臣秀吉との出会いです。有名なエピソードが「三献の茶」。これは、長浜の地を治めた豊臣秀吉が鷹狩りの途中で喉をうるおすため、近くの寺に立ち寄った際のこと。寺の小姓だった三成は、秀吉が火傷をしないよう、一杯目は大きな茶碗でぬるめの茶を、二杯目はその半量ほどの熱めの茶を、三杯目は小さな茶碗で熱い茶を献上し、その気配りに感心した秀吉に召し抱えられたといわれています。

 この逸話の舞台とされる寺が、三成の出生地からほど近い米原市朝日の「大原観音寺」。開基は平安時代にさかのぼるという天台宗の古寺で、境内には本堂や鐘楼といった国指定重要文化財とともに、三成が茶にする水を汲んだと伝わる「三成水汲みの井戸」が残り、往時を偲ばせています。

民のためのやさしい国づくり

石田三成公事蹟顕彰会・一居信夫さん

 豊臣秀吉に才覚を見出された石田三成は、ともに天下統一への道を歩み出します。とくに長けていた算術や管理能力は、戦場だけでなく、秀吉が天下人となった後の国の統治にも活かされました。「石田三成公事蹟顕彰会」理事長一居信夫さんは、三成が“人民のための政治”を行っていたと語ります。

 「三成さんは、全国規模の土地調査である太閤検地を指揮するなど、国を治めるためのさまざまな礎を築いた。先々を見据えて行動できる、頭のきれる人だったのでしょう。いっぽうで、凶作の年に年貢を免除したり、どうしても納められない場合は人手間を許したり。そうした史実から民百姓を思いやる、やさしい政治をしていたことがうかがい知れます」

 当時、三成が志していた「大一 大万 大吉」という「社会の在り方」は、時を超えて現代社会に脈々と受け継がれているものです。たとえば、私たちはときに見失いがちですが、周囲を思いやり、個々の多様性を尊重するといったことを大切にしています。

 三成の想いは、世の中に広く根を張り、生き続けているのです。

人々を魅了するその一途さ

関ヶ原の戦い

 長年、石田三成につきまとってきた悪役の印象は、関ヶ原の戦いの勝者側が作ったものだという見方が定説になりつつあります。

 関ヶ原の戦いといえば、だれもが知る史上最大規模の大合戦。豊臣秀吉の没後、豊臣家を守るため、五奉行のひとりとして奔走した石田三成でしたが、次の天下人の座を狙う徳川家康との争いは避けられず、慶長5(1600)年9月、現在の岐阜県関ケ原町でついに天下を二分する決戦に。しかし、三成率いる西軍は奮戦むなしく力尽き、家康の東軍が勝利します。

 西軍が負けた理由は、味方でありながら東軍に調略された小早川秀秋が寝返ったからというのが通説です。秀秋は秀吉の甥にあたり、養子として育てられた身内でした。
「道義心というものは、だれしも持つところですが、戦国時代は“我が身かわいさ”“長い物には巻かれよ”で、裏切りも少なくなかった。でも、三成さんは、幼少時から秀吉に育てられた恩を忘れず、豊臣家の跡継ぎ、秀頼への“義”を貫きました。この一途さをいま、慕う人が多いのでしょう」

三成ファンは海外にも

大一、大万、大吉

 関ケ原古戦場から北西へ車で30分ほど。長浜市木之本町古橋の山奥には、合戦後、敗走した石田三成が農民にかくまわれたという「大蛇の岩窟(おとちのがんくつ)」があります。そのてん末を伝える逸話も数々あり、徳川方が三成の首に年貢免除といった懸賞金をかけたにもかかわらず、三成を慕っていた農民が命がけで守ったというものも。しかし、三成は捕縛され、京都六条河原で最期を迎えます。三成屋敷跡からほど近い、石田神社こと八幡神社の裏手には、三成公供養塔や、辞世が刻まれた歌碑が建ち、訪れる人の姿が絶えません。

 「遠くは北海道から、海外では台湾、中国からも三成ファンの方が大勢おいでになります。とくに熱心な方は、男性ではなく、女性の方が多いですね。不思議ですが(笑)」

 万民のための国づくりを目ざした三成の旗印は、400年経ったいまも、石田の集落でたなびいています。これからも、その理想の大切さを伝え続けてくれることでしょう。